Monday, November 24, 2008

スローが消える日

「いずれここもプエルトバヤルタになっちゃうんだろうね」
まだ人影が少ないビーチを歩きながらビッグドッグにいった。まだまだ高層ホテルやコンドミニアムが並ぶ観光地、プエルトバヤルタにはほど遠いが、静かな田舎も年々増える外国人客でどんどん変化している。バスターミナルだった建物は不動産オフィスになってしまい、不動産物件も北米並みの金額だ。建設ラッシュもここ数年加速しているのだが、幸い、今のところまだ巨大なホテルやコンドミニアムは建てられていない。クレーンなどの大型建設機材もなく、全て人力でコンクリート建築が進められている。

しかし、一番の変化は町並みより「人並み」だ。

4年前はまだ伝統的な田舎町だった。日曜の夜は皆、中心のプラザに集まりベンチで会話を楽しんだり、ティーンたちは女の子同士、男の子同士のグループでお互いを意識しながらプラザをぐるぐる何回もゆっくり歩く。小さな男の子たちのお父さんそっくりスタイル(カウボーイハット、シャツ、ジーンズ、ブーツ)がとてもキュートだった。

今やプラザは昔のような社交界の中心ではなくなってしまった。ケーブルや衛星テレビ、パソコンやDVDに役割を奪われてしまったのだ。家族は昔より孤立しているようにも感じる。若者も北米の若者と同じようなファッションで味気ない。強烈なメキシカ~~~ンがどんどん薄れてしまっている。

私たちのせいかもしれない。外国からの住民や観光客で村もかなり裕福になっているに違いない。4年前、何もなかった家庭が今は衛星テレビも携帯電話もインターネットもある。ほとんどの家に洗濯機や冷蔵庫、ガスレンジなどが完備され、一日でできることも増えている。一日、一時間にいろんなことを詰め込むと人生のペースも速まる。いつか、この村のペースは私のペースを越してしまうだろう。

スローが消える日。それほど遠くないかもしれない。

Thursday, November 20, 2008

ビバ・ラ・レボルシオ~ン!

今日は「革命の日」
1910年の農民革命を祝う日だ。

団塊世代の陰で育ちフラワーパワーには遅すぎ、ディスコには早すぎた私の少女時代のヒーローはチェ・ゲバラ、アンジェラ・デイビス、ジェリー・ルーベンや70年代のジョン・レノンなどだった。「革命」という言葉を聞くだけで胸が騒ぎ、握りこぶしを掲げ、銀行のカウンターでAK47を振り回し(スタイリッシュなベレー帽はオプションね)「パワー・トゥ・ザ・ピープル!」と叫びたくなってしまう。そう。私は薄っぺらでポップカルチャー的な革命主義者なのだ。

日本でも農民の一揆や学生運動などはあったが、本当の意味の革命はまだ起こっていない。個人的にはそこに日本の一番の問題が隠されているような気がする。民衆は自らの力を把握していないだけでなく、試したことすらない・・・と思う。日本史や日本社会史を勉強していない私なので、時々とんでもない勘違いをしてしまう。今日も「一揆」という言葉を思い出せなく、調べたら、Wikipediaにはこんな記述が:

『孟子』に由来する言葉で、江戸時代になると幕府に公認された既存の秩序以外の形で、こうした一揆の盟約による政治的共同体を結成すること自体が禁じられるようになるため、近現代の日本では一揆自体があたかも反乱、暴動を意味する語であるかのように誤解されるようになった。確かに一揆が反乱的、暴動的武力行使に踏み切ることもあるが、こうした武力行使が一揆なのではなく、これを行使する「盟約に基づく政治的共同体」そのものが一揆なのである。

こういった誤解のため、日本の一揆が英訳されて海外に紹介されるに際しても、 riot, revolt といった暴動や反乱を意味する語として訳されるのが一般化してしまった。近世の「百姓一揆」も peasant uprising と英訳されて紹介されているが、現実には peasant の意味する零細な小作人だけによるものではなく、むしろ村落の指導的な立場に立つ裕福な本百姓らによって指導されており、彼らはむしろ英語で農場経営者を指す語である farmer と訳すのがふさわしい事を考慮すると、これも歴史的事実に即した英訳とは言えない。同様に、例えばミュンヘン一揆のように世界史における庶民や民衆運動による反乱、暴動も日本語訳されるときに一揆の語を当てることが慣用化している面があるが、これも中世の日本の一揆とは似て非なるものと言わざるを得ない。


ふむふむ。

メキシコの革命はまさに上記のpeasant uprisingだ。だから夕方のパレードには昔の農民たちのかっこうをした小学生も参加。男の子は生成りの上下に麦わら帽子、日本語の「わらじ」から由来したという説もあるワラチ・サンダル、そしてビニールとテープで作った弾薬帯におもちゃのライフル。眉墨のヒゲもかわいらしい。女の子は三つ編み、長いギャザースカート、刺繍入りのブラウスでミニ・フリーダ・カーロになっている。

ホイッスルが鳴るとパレードは止まり、どこからか座布団のようなマットがそれぞれのグループの前におかれ、体操着の男の子たちが人間ピラミッドを作る。どうやら、これも「革命の日」の大切なアイテムらしい。

「なるほど。身体を鍛えて、革命に備えるってことね」と思っていたが、実はもっと抽象的な意味があるようだ。シンボリックに見ると、人間ピラミッドはピープルパワーの象徴。庶民の力、合同体の力を意味している。やっている生徒たちはどう感じながらピラミッドを作っているのだろうか?裕福になると庶民の力のことなんてあまり考えなくなるからなぁ。

Sunday, November 16, 2008

英語人

弟が始めて日本を訪れた時、まったく日本語が話せなかった。彼は日本語と英語の中で育ったのだが、バイリンガルではなかった。二つの異なる言語はどうやら幼い彼を混乱させたのか保育園に入るまでほとんど話せなく、まわりの人は知恵おくれだと思っていたのだろう。やっと英語で会話ができるようになったと思ったら今度は日本だ。

近所の子供たちは外人ではないが、英語でしか話せない彼のことを「英語人」と呼んでいた。。便利な言葉だ。「英語圏の人々」より簡単でいい。

このメキシコの漁村には冬になると「英語人」がわんさとやってくる。主にカナダからだが、米国からもキャンピングカーやバン、レンタカー、タクシー、バス、そしてヨットでぞろぞろと気候を追いながらやってくる。

日本人も日本語を話そうとする外人に優しいが、地元のメキシコ人もとても寛容だ。私はしょっちゅう動詞の活用を間違えているし、スペイン語とイタリア語、フランス語をごっちゃにしてしまうこともよくある。それでも、みんなわかってくれる。

でも英語人には英語人特有の問題がある。発音だ。
英語ができれば、スペイン語の発音は簡単なはずだが、英語人はどうしても母音に惑わされてしまう。英語の母音はいくつもの発音があるし、曖昧でもある。方言でかわるのは主に母音だ。(Bikeは米語では「バイク」だが、スコットランドでは「ベイク」と発音する。)
「だから不思議なのよ。スペイン語の母音は日本語と同じように変わらないじゃない。変わらない5つの音を覚えるのなんて簡単じゃない。逆に英語の変化だらけの母音の方が難しいし、その難しい言葉が話せるなら、変化しない母音はもっと優しいはずじゃない?」といつも不思議に思うのだ。

ハワイにいけば「ホノルル」のはずの地名が「ハーナルールー」と発音される。
牧場から近いサンルイスオビスポのメインストリートHiguerraもスペイン語の「イチジク」で「イゲーラ」(ゲはソフト)と発音すべきなのにテレビのニュースキャスターまでが「ハイゲーラ」と呼んでいる。
「発音できないんだったらfigに改名すればよかったのに」とビッグドッグは笑う。

しかし、彼でさえ、スペイン語母音の発音を間違える。日本語もそうだが、スペイン語も母音が違うとまったく別の言葉になってしまう。
昔、日本で暮らしていた頃、彼はよく怒っていた。「日本人は勘が悪すぎる!レストランで ”ミゾ下さい” と言ってもわかってくれない!」
そりゃそうだろう。レストランだったら「ミゾ」は「水」かもしれないし「味噌」なのかもしれない。たぶん、英語人には「z」が肝心で「a」や「u」はそれほどでもないのだろう。

問題は地元のメキシコ人たち。我々の間違いをなかなか直してくれない。だから英語人は何年ここで暮らしてもbarraを「バッラ」ではなく「ベーラ」と発音してしまう。グァダラハラもグァダラヘーラだ。(そして、友人はなんど教えても「天ぷら」のことをテンピューラと呼んでしまう。)スペイン語人になるにはそうとう時間がかかりそうだ。

Wednesday, November 12, 2008

マニャーナモード

メキシコに到着してから既に1週間。日に日にマニャーナモードにシフトしているのがわかる。
今回は特に、久しぶりのテレビ収録(仕事)の直後だったのでテンションを下げるのに少々時間がかかっている。

「わ~、真っ白!バイブレーションもメヒコじゃない!」と驚くのはハイウェイで和食屋をやっているこの近辺では唯一の日本人家族のゴローさん。
「まだ北米モードよ!」
「普通のグリンゴとは違うバイブレーションだけどね。」
「あと数日発てばメヒコモードになると思うけど、“一生懸命なろう”と思っている間はまだまだなのよね。」
「そうそう。考えちゃダメ。ボーッとしないと。」

ゴローさんは30年以上もメキシコの田舎町で暮らしているから“いい加減”の精神がよくわかっている。仏教的にいう「良い加減」ね。“一生懸命”にはあまりにも欲が潜んでいる。ボーッとすると第三の目が開き、一生懸命生きているとわからないことがわかってくるのだ。

4年前、たまたまこの漁村を「発見」してから何度も訪れ、今ではセカンドホームのようだが、悲しいことにスペイン語はちっとも上達しないまま。未だに「トラベリング・スパニッシュ」しか話せない。地元の人たちは優しく、理解しようとするが、ひどい時は余計に混乱させてしまう。

でも、新しい言語を身につけるというのは実に楽し。私の場合、テレビ映画の字幕が先生だが、覚えてしまうのはけっこう無駄な言葉やフレーズばかり。例えば、英語のwow!はスペイン語でcielo! だが、みんなwowと言えば意味はわかる。わざわざcieloなんて言うの、ヘン。だけどcieloは元々「空(ソラ)」という意味。どうしてwowが「空」になってしまうのだろう?謎があると忘れられないのだ。