Monday, January 22, 2007

ハイ&ドライ

私の大好きなレイディオヘッドの曲タイトルだが、このロス郊外の街、ランキャスターを表すのにピッタリ。モハベ砂漠は標高が高く、冬は極度に寒い。今は温暖化で滅多に雪は降らないが、昔は結構降ったらしい。その上、湿度がマイナス数値じゃないか、と思うほど乾燥している。肌はどんなにケアをしてもガサガサ。目の玉も水分が全部吸い取られ、痛い。

ビッグドッグのお兄さんが一昨日入院してしまったのだ。脱腸をそのままにしていたら、どんどん悪化し、とうとう破裂してしまった。緊急手術は成功し、10日ほどで退院できるらしいのだが、その後、3ヶ月くらいは人工肛門を使わなければいけないとか。早目の治療に限る。医者嫌いの私も何か問題があっても我慢できれば「そのうち治るよ」とそのままにする傾向があるので、今回の事件はいい教訓だ。

今日、牧場からランキャスターへ移動し、お見舞いに行ってきた。

「眠れないんだよ、うるさくて」とドッグブラザーは言う。まだあちこちから管が出ていて、痛そうだ。
昔は「日本の病院って古くて暗くて、コワイ」と思っていた私だが、最近はどこも近代化され、今ではアメリカの病院とあまり変わらない。その上、アメリカの病院ってあまりデリカシーがない。スタッフは廊下でキャッキャ騒いでいるし、動作も大雑把なので、何をやるにもガタガタ音をたたてやる。しかも、日本人から見ると、ちょっと乱暴だ。

「でも、いいホワイトノイズ(白色雑音)があるじゃない」とビッグドッグが隣でイビキをかきながら寝ている患者のことを笑うと、ドッグブラザーのワイフは「となりの人、見た?体中入れ墨だらけよ。銃で打たれたのよ」と身震いしながら私たちに説明する。

そう言われると、見ずにはいられない。こっそり、除いたら、黒人かメキシコ系の男が寝ているのだ。恐そうだが、ハンサムでもある。なんとなく・・・トゥパックに似ている。そして胸からお腹にかけて何かの言葉が入れ墨されているのだが、シーツがかぶさって、なんて書いてあるのか読めない。

もし、暗殺未遂だったら、また犯人はこの病院にやってくるんじゃないだろうか、なんて勝手に
想像するとドキドキしてしまう。映画の世界だ。シーツを剥がせば、何かヒントのようなものがあるのだろうか?一人でどんどん想像して楽しんでいる私だ。

その夜、夕食後、また病院に寄ったら、入れ墨男は起きていた。ベージュ色のカーテンの向かうから
「ここにも椅子がありますよ」とビッグドッグに言うから彼は「僕達は大丈夫ですよ。鼻から管も出ていないし」なんて笑い、彼の具合を伺うと、彼は「胆石を取ったばかりで・・・」と教えてくれる。

胆石!?胆石?トゥパック君は胆石で入院しているの?な〜〜んだ。勝手に想像していた私ってバカ。

でも、ちょっと待てよ。ワイフの言葉を鵜呑みにした私だけど、この男の言葉もそのまま信じていいの?胆石じゃなく胆弾丸だったかもしれないじゃないか。我々の前で本当のことを言わないだけかもしれないじゃないか。真実は何だろう。真実ってあるのだろうか?もう、乾燥が理性まで干涸びさせてしまったのだろうか?

Saturday, January 13, 2007

牧場の冬

元旦に牧場にやってきた。
江戸っ子の私は妙に縁起を担いだりする癖があり、子供の頃から「元旦の行いはその一年を影響する」とどこか心の底で信じているみたいだ。だから、なんだか元旦にここにやってこれたのも「縁起がいい」感じがする。

11月初頭から離れていた牧場。ハワイにいる間、サーフィンやボディーボードに熱中している間はなんとかここの「魔法」から解放されていたのだが、10日もここにいるうちにどんどんまた虜になっていくのが感じられる。昨日も果樹園で刈り込み作業をしている間、時々あたりを見回して「わあ、なんてキレイな土地なんだろう!」を息を取られる私だった。草の新芽が出て来て、地面をソフトなネオングリーンのカーペットに模様替え。草の新芽は世にもデリケートだけど、その繊細な草の葉には想像もできない生命力が宿っている。

私のように虜になっていない(いかない)ビッグドッグは毎日果樹と「戦って」いる。バトルなのだ。そりゃ、私も木にやられっぱなしだ。小枝は目に入るし、枝にやられ体中傷だらけだ。その上、「え?こんな筋肉あったっけ?」というくらい体中のあちこちが痛い。特に最初の数日は辛かった。太陽とともに起き、日が沈むとその日の作業は終わりなのだが、夕食を作り、片付けたら、もうその後は何もしなたくないくらい疲れている。だから「戦い」という風に感じてもしょうがないのだが、私にとってこの作業はlabor of love。愛の証なのよ。

叫びが聞こえないだけかもよ。木だって切れば痛いのかもよ。そう思って刈り込みをすると辛いので「これは理髪作業のようなもの」とイメージしているのだが、理髪だって「戦い」と思ってやるものではない。私は一人、黙々と丁寧に刈り込んでいる。だから、もちろん、ビッグドッグより作業はずっと遅い。だけど、愛は伝わっているんじゃないかなぁ。そう思いたい。

幸い、天候は素晴らしい。ロスオソス・バレーに強風が入っても、熊さん牧場には入らないし、今まで日中が曇りで寒かったのは1日だけだ。(雨になったら、他にやることがあるんだけど、ずっと晴れが続いている。善くも悪くも。)そして、数日前までは異常に暖かかった。日中はTシャツでオーケー!(だけど、肌が露出されているところは傷だらけ。)

ここに来てから2週間くらいたっているのだが、そういうわけでなかなかブログに書き込む時間(余裕?)がないのだ。まだまだ伝えたいことは沢山あるんだけどね。

時間の話

年末近くになると必ず聞くのが「一年が過ぎるのは速いですね」とか「どうしてこんなに時間が経つのが速くなってしまったんでしょう」とか。日本だけでなく、アメリカでも"I can't believe it's already 2007!"
でも、時間って・・・時の始まりから同じように流れているのだ。一日には24時間。1時間には60分。1分には60秒。で、誰にとっても1秒は同じ時間。(勿論、他の惑星だったら、違うだろうけど。)

でも、時間の感覚ってかなり個人差があると思う。私の甥っ子はまだ4歳になったばかりなので、彼にとっての1年は人生の4分の1!彼のお父さんの人生の4分の1は10年!80歳の人にとって、4分の1は20年。そう考えると、なるほど、だから毎年毎年、なんだか1年が経つのが速く感じるんだ、と納得。

だけど、時間の感覚って単に人生の長さに比例するものではないはず。例えば、1週間のバケーションは仕事をしている1週間より何故か長く感じる。それはルーティンではないからじゃないかなぁ。毎日が新鮮な1週間、いろんな新しい発見や体験が詰まった1週間は普段の倍くらい長く感じたりしない?楽しい時はある意味あっという間だけど、つまらない時間より充実しているので、長くというか大きく感じるのだ。

時間の長さは地球上、同じだけど、太さはどう時間を過ごすかによって変わってくるようだ。

東京で仕事の鬼だったころはいつも時間に追われていた私。いっぱい詰め込みすぎて、時間がたりなく、それが大きなストレスになっていた。「あれもやらなければ」「これは間に合うだろうか?」

締め切り、期限、約束、スケジュール。自分の人生が秒刻みになっていて、いつも「期限」というものに脅かされていた。そのような生活から抜け出すと、自然な時間の流れの中で暮らせるようになったと思う。少なくても時間にあおられず、時間と共に生きている、そんな感じだ。そして、毎日が新しい1日だと、同じ24時間でも大きな1日になる。だから、1年は私にとって人生の40分の1以下かもしれないけど、どんどん「太く」なっている。ちょっとだけ4歳の甥っ子に近づいたかな?