Wednesday, April 25, 2007
Monday, April 16, 2007
青空牧場
土曜日、小雨が降る中、2か月半ぶりに牧場に戻った。
今年は雨が少なく、農家は困っていたので、少ないながらもありがたい雨だ。
1月に刈り込みした果樹たちはみんな元気でホッとしているのだが、残念ながら梅と桃の開花時には間に合わなかった。今はリンゴと梨の気に若干花が残っている、という感じだ。だが、春なのだ!草はぼうぼうと生えているし、どこを見ても花が咲いている。名前がわからない黄色の花に飾られた木々。紫やオレンジや白い花々。
ニワトリもまた卵を生むようになっているし、犬や猫や馬たちも元気にやっている。
昨日は1日雑草取りと地ならし。私の手首くらい太い茎と腰までの高さの雑草を取り除くのに一苦労。ビッグドッグは今も「絶対に売る!」と牧場を罵っているが、昨日からまた晴天が戻り、あたりは美しすぎる。なんだかとても幸せな気分だ。
今年は雨が少なく、農家は困っていたので、少ないながらもありがたい雨だ。
1月に刈り込みした果樹たちはみんな元気でホッとしているのだが、残念ながら梅と桃の開花時には間に合わなかった。今はリンゴと梨の気に若干花が残っている、という感じだ。だが、春なのだ!草はぼうぼうと生えているし、どこを見ても花が咲いている。名前がわからない黄色の花に飾られた木々。紫やオレンジや白い花々。
ニワトリもまた卵を生むようになっているし、犬や猫や馬たちも元気にやっている。
昨日は1日雑草取りと地ならし。私の手首くらい太い茎と腰までの高さの雑草を取り除くのに一苦労。ビッグドッグは今も「絶対に売る!」と牧場を罵っているが、昨日からまた晴天が戻り、あたりは美しすぎる。なんだかとても幸せな気分だ。
Friday, April 13, 2007
患者さまは神さま
UCLAメディカルセンターのお世話になるのは4年ぶり。(毎年恒例の検査です。)医者嫌いな私は安心して通える医療施設を見つけるのに一苦労。UCLAメディカルセンターはかなり好印象を受けた施設だが、会計システムが複雑すぎて、最後まで私の国際健康保険会社が納得いくような会計にはならなかったため、仕方なく、過去4年間、あちらこちらの医者、施設を使ってみたのだが、「ここなら」というところが見つからず、再度UCLAをトライしてみることに。
昔から日本のお医者さんの偉そうなところが嫌いだった。封建的な環境の中で育っている医者たちだからしょうがないのかもしれないが、患者を家畜のように扱う医者にはかかりたくない!でも、そう思っても滅多に病気にならない私は医者を探すのも何十年がかりって感じだ。
「患者はお客さんよ!お客さまは神様よ!」という私は「お客さま」として扱ってくれるはず、金さえ払えば一流の医療が期待できるはずのアメリカの医療を評価していた。「何かあったら、私はがっぽりお金を払って、最高の医療のお世話になるわ」と思っていた。
だが、実際、アメリカの医療を体験してみると、確かに患者は「お客さま」だが、「神様」というよりは「カモ」であることに気付いた。一般の医者は製薬会社とつるんでいるかのように、患者に必要あるのかないのかわからない製薬を処方し、必要なのか不要なのかわからない治療を薦める。これが資本主義社会の医療なのね。原因を突き止めるより症状を消す、そういう医療。だって、本当に健康だったら、医者も製薬会社も儲からないじゃない?(だいたい、薬って症状を治すかもしれないけど、一つの症状を治す代わりに他を弱くしているような感じがしてしまう。)そんな中、UCLAメディカルセンターは日本の社会主義的医療とアメリカのとの中間という雰囲気だ。大学付属病院だから、重傷患者や珍しい病気の人たちが大勢いる。来る患者全員を「大病人」にする必要がないのだ。
その上、ここのウェイメンズセンターにいるドクター・マーは中国系アメリカ人のとても感じのいい、女医さんだ。彼女も他のスタッフも患者との距離がなく、とても心地いい。会計さえちゃんとしていれば、申し分ないのだが。
自分の体だもんね。納得のいく医者や施設に預けたいものだ。
昔から日本のお医者さんの偉そうなところが嫌いだった。封建的な環境の中で育っている医者たちだからしょうがないのかもしれないが、患者を家畜のように扱う医者にはかかりたくない!でも、そう思っても滅多に病気にならない私は医者を探すのも何十年がかりって感じだ。
「患者はお客さんよ!お客さまは神様よ!」という私は「お客さま」として扱ってくれるはず、金さえ払えば一流の医療が期待できるはずのアメリカの医療を評価していた。「何かあったら、私はがっぽりお金を払って、最高の医療のお世話になるわ」と思っていた。
だが、実際、アメリカの医療を体験してみると、確かに患者は「お客さま」だが、「神様」というよりは「カモ」であることに気付いた。一般の医者は製薬会社とつるんでいるかのように、患者に必要あるのかないのかわからない製薬を処方し、必要なのか不要なのかわからない治療を薦める。これが資本主義社会の医療なのね。原因を突き止めるより症状を消す、そういう医療。だって、本当に健康だったら、医者も製薬会社も儲からないじゃない?(だいたい、薬って症状を治すかもしれないけど、一つの症状を治す代わりに他を弱くしているような感じがしてしまう。)そんな中、UCLAメディカルセンターは日本の社会主義的医療とアメリカのとの中間という雰囲気だ。大学付属病院だから、重傷患者や珍しい病気の人たちが大勢いる。来る患者全員を「大病人」にする必要がないのだ。
その上、ここのウェイメンズセンターにいるドクター・マーは中国系アメリカ人のとても感じのいい、女医さんだ。彼女も他のスタッフも患者との距離がなく、とても心地いい。会計さえちゃんとしていれば、申し分ないのだが。
自分の体だもんね。納得のいく医者や施設に預けたいものだ。
Tuesday, April 10, 2007
Monday, April 09, 2007
タマゴ
週末は世界的に不思議なエネルギーに溢れていた数日だったはずだ。
復活祭、花祭り(お釈迦様の誕生日)、シーク教の収穫祭、ユダヤ教のパスオーバー…と、私が知る限りでもこんなにたくさんの宗教的イベントがあった。
そんな中、私はかわいいパステルカラーの卵に囲まれたアメリカン・イースターを過ごしたのだが、宗教色は限りなく薄く、家族が集まる口実、という感じだった。
どの家もタマゴ、ヒヨコ、ウサギなどのデコレーションがとてもキュートだが、私はあのイースターエッグに一番ひかれてしまう。卵のイメージって好きだな。生命の誕生、限りない可能性などが含まれているのだが、あの卵形がなんとも言えなくセクシーなんだな。
上の絵は最近始めたプロジェクトからだ。
英語版ブログにも書いたのだが、本来はポストイットを使って毎日、絵日記のように1日1枚1作品を描くというものだ。やりながら気付いたのはこれは数年前やった「クリエイティブ・スランプの克服法」にとても似ていること。前の「克服法」では1日1ページ、手書きで何がを書くというとてもシンプルなエクササイズ。手で文章を書く、という行為がどうやら脳のクリエイティブな部分を刺激するらしいのだ。だから、内容はどうでもいい。この1日1作品、というのも私にとっては「大作」というよりはサーフィンの前のストレッチのようなもの。だけど、やっているうちにどんどん創作意欲も湧いてきている。ただのエクササイズといいながら、一日に何度もその日の作品に戻り、ディテールを足したり、内容を変えたり。かなり楽しんでいる。
で、このエクササイズをやりながら、もう一つ気付いたことがある。私のこのような作品には「言葉」が要素として入るのだが、その「言葉」は必ず英語になっていること。(もう今はそのことを意識しちゃっているので、今後は意識的に日本語を入れるかもしれないが)何故、ディープな内面や潜在意識の部分からのものだと英語になってしまうんだろう?夕べ、このことについて考えているうちになんだか落ち込んでしまった。
私の日本語の表現力ってそんな上辺だけのものだったんだろうか?本当に意味のあることは英語でしか言えないのだろうか?日本人なのに。これは情けなさ過ぎない?とか。でも、考えているうちに、そうじゃない!私には同時に「日本語でしか表現できないこともたくさんある!何をどう表現するかによって、言語を選択しているだけだ」と思うようになった。
ロジカルなことを話す場合は絶対に英語の方が話しやすい。感性のものは日本語の方が表現しやすい時が多い。でも、内面的なことになると少女時代からの日記のトレーニングからかどうしても英語になってしまうんだろうな。これはいけない。これからは1日1作品ももう少しバイリンガルにしないと!
復活祭、花祭り(お釈迦様の誕生日)、シーク教の収穫祭、ユダヤ教のパスオーバー…と、私が知る限りでもこんなにたくさんの宗教的イベントがあった。
そんな中、私はかわいいパステルカラーの卵に囲まれたアメリカン・イースターを過ごしたのだが、宗教色は限りなく薄く、家族が集まる口実、という感じだった。
どの家もタマゴ、ヒヨコ、ウサギなどのデコレーションがとてもキュートだが、私はあのイースターエッグに一番ひかれてしまう。卵のイメージって好きだな。生命の誕生、限りない可能性などが含まれているのだが、あの卵形がなんとも言えなくセクシーなんだな。

英語版ブログにも書いたのだが、本来はポストイットを使って毎日、絵日記のように1日1枚1作品を描くというものだ。やりながら気付いたのはこれは数年前やった「クリエイティブ・スランプの克服法」にとても似ていること。前の「克服法」では1日1ページ、手書きで何がを書くというとてもシンプルなエクササイズ。手で文章を書く、という行為がどうやら脳のクリエイティブな部分を刺激するらしいのだ。だから、内容はどうでもいい。この1日1作品、というのも私にとっては「大作」というよりはサーフィンの前のストレッチのようなもの。だけど、やっているうちにどんどん創作意欲も湧いてきている。ただのエクササイズといいながら、一日に何度もその日の作品に戻り、ディテールを足したり、内容を変えたり。かなり楽しんでいる。
で、このエクササイズをやりながら、もう一つ気付いたことがある。私のこのような作品には「言葉」が要素として入るのだが、その「言葉」は必ず英語になっていること。(もう今はそのことを意識しちゃっているので、今後は意識的に日本語を入れるかもしれないが)何故、ディープな内面や潜在意識の部分からのものだと英語になってしまうんだろう?夕べ、このことについて考えているうちになんだか落ち込んでしまった。
私の日本語の表現力ってそんな上辺だけのものだったんだろうか?本当に意味のあることは英語でしか言えないのだろうか?日本人なのに。これは情けなさ過ぎない?とか。でも、考えているうちに、そうじゃない!私には同時に「日本語でしか表現できないこともたくさんある!何をどう表現するかによって、言語を選択しているだけだ」と思うようになった。
ロジカルなことを話す場合は絶対に英語の方が話しやすい。感性のものは日本語の方が表現しやすい時が多い。でも、内面的なことになると少女時代からの日記のトレーニングからかどうしても英語になってしまうんだろうな。これはいけない。これからは1日1作品ももう少しバイリンガルにしないと!
Monday, April 02, 2007
Moving On
週末、ある程度の波がワイキキに戻ってきたので、ボディーボード・マニアの3日間だったが、また移動する時が来てしまった。
だが、どこへ。
取りあえず、ロスに行き、イースターをドッグファミリーと過ごすところまで予定が入っているのだが、その後は?
先日もビッグドッグと言い合っていた。
「牧場に行こうよ!たぶん、すっごくいい季節だと思うよ。種まきもできるし、初夏はアプリコットや桃の季節じゃない?」
ビッグドッグはこの提案になにもコメントしないので、どんどん提案を投げ出す。
「アケータに行く?アリゾナに用があったと言っていたから、アリゾナでもいいよ」
「こんなにガソリンが高くなっているから、あまり運転はしたくないんだ」
「じゃあ、メキシコまで飛んで、バスと電車で南米へ行くというのはどう?8月のB&Gの結婚式までにリオに到着できたらいいんじゃない?」
「30年以上前にオーバーランドで南米まで行っているよ。もうこの年でやりたくないね」
「ということは、そういう旅がしたかったら、勝手にしろってこと?」
「そうだな」
「グアテマラ」「キューバ」「メキシコ、バハ」などのロケーションが会話に出てきているのだが、実際どこになるのか。
東京にいたころはいつも心が海外にいっていたため、誰かに「5年後の自分ってどうなっていると思う?」と聞かれても答えられなかった。どうなっているんだろう、5年後には?と、全く想像できなかったが、今や2週間後も分からない。人生の冒険って最高だね。
だが、どこへ。
取りあえず、ロスに行き、イースターをドッグファミリーと過ごすところまで予定が入っているのだが、その後は?
先日もビッグドッグと言い合っていた。
「牧場に行こうよ!たぶん、すっごくいい季節だと思うよ。種まきもできるし、初夏はアプリコットや桃の季節じゃない?」
ビッグドッグはこの提案になにもコメントしないので、どんどん提案を投げ出す。
「アケータに行く?アリゾナに用があったと言っていたから、アリゾナでもいいよ」
「こんなにガソリンが高くなっているから、あまり運転はしたくないんだ」
「じゃあ、メキシコまで飛んで、バスと電車で南米へ行くというのはどう?8月のB&Gの結婚式までにリオに到着できたらいいんじゃない?」
「30年以上前にオーバーランドで南米まで行っているよ。もうこの年でやりたくないね」
「ということは、そういう旅がしたかったら、勝手にしろってこと?」
「そうだな」
「グアテマラ」「キューバ」「メキシコ、バハ」などのロケーションが会話に出てきているのだが、実際どこになるのか。
東京にいたころはいつも心が海外にいっていたため、誰かに「5年後の自分ってどうなっていると思う?」と聞かれても答えられなかった。どうなっているんだろう、5年後には?と、全く想像できなかったが、今や2週間後も分からない。人生の冒険って最高だね。
